ここで取り上げる玩具をひとことでいうなら、<原型>となる。
たとえばクルマの玩具なら、スケール・モデルをふくまない……個別の車種の特徴を削ぎ落とし、共通の外観のみを取り出したもの――クルマの<概念>をそのままカタチにしたようなおもちゃ――をあつかう(※1)。
たとえば人形なら、キャラクタものをふくまない……固有のキャラクタは固有の物語を背負っているが、遊び手が織りなそうとする物語に、それが余分な情報をつけ加えてしまうかもしれないからだ(※1)。
いずれにしても原型は、それを構成するルール/パターンの数が極端にすくない――つまり単純だ。だからこそモノのかたちやしくみ/あるいは法則や物語の構造をはっきりと認識できる……それは、ミニチュア玩具や推理小説で細部を追求しようとする態度とはまったく逆の、源流を辿ることを楽しむ行為だ。
ただしこの行為はまた、節制を知らない……カタチならそのカタチの理想形をどこまでも追求しようとする。極限まで抽象化されたクルマをさらに分解するならそれはクルマでなくなってしまうが、それでもかまわないのだ。このとき興味の対象は、クルマという個別のモノではなく、モノ全般――あらゆるモノ――が備える原型、に移っている。
ブロック玩具は、あらゆるモノの原型を追求するおもちゃだ(それぞれの形態や機能を分解し/ふたたび構成するための、最小の共通構造を追い求める)。そしてそれは物理より数学に近い(最小パーツがなにかを決めるのは、現実のモデルになり得るかどうかではなく、ただ想像力のみによっている)……だからパーツの種類は無限にある。ブロック玩具のパターンもまた、無限にある。
単純な玩具はどれも、あるヒトの心に生まれた原型を外界に取り出したものだ。そしてそれらの玩具は、べつのヒトが新たな創造を行うときの原典/素材/道具となる。そのサイクルが繰り返されるかぎり、(リソースは無尽蔵にあるのだから)<創造する玩具>の系譜は果てしなく続く……だからそれを楽しむ旅も、終わることがない。